朝3分で横浜市 矯正のノウハウが断然アップ
一九九七年ごろからダウが急速に上昇傾向を見せ始めると、学者たちが「ニュー・エコノミー」という言葉を使って囃し立てたのと一緒だ。
相場手に自信を持っている職業家も似たようなことを言っている。
『トム・ソーヤの冒険』や「ハックルベリー・フィンの冒険』などで知られる作家MTによれば「一○月は株式投資が特に危険な月だ。
ほかに危険な月は、七月、一月、九月、四月、月、五月、三月、六月、二一月、八月、それに二月だ」ニューヨーク証券取引所の最高値は、一九二九年九月二一日につけた三八二一ドルだった。
この高値の記録が更新されるのは前述したように、一九五四年。
なんと二五年後のこととなる。
この日、これが暴落前の最高値になることに気づいた人は、もちろんほとんどいない。
だが、不安感に駆られていた人も、数少ないながらもいることはいた。
アメリカの国際経済学者であるMS工科大学のK教授は、「一九二九年の春には、すでに株価が高すぎると感じた人はいました。
しかしいつ株価が落ちるかはわからなかった。
なぜなら下落は人々の心理が引き起こすからだ」と、述べているがどんどん上がってこのまま上昇しつづけるような期待感がふくらむと、評論家や経済学者はそれを当然のこととして、高値の理由を説明し始めるのは、今も昔も変わらない。
「歴史的勃興」という″理論″の裏には、アメリカが新しい時代に入っているという認識があった。
親の時代にはアメリカにはこんなに富はなかったが、今は人々が現実に富を手にした。
富があるのだから、それを元手にして株価は上がって当たり前なのだ、ということになる。
JSKも、不安を抱いていた一人だった。
最高値をつけた一九二九年九月に彼が下した決断は、「K家の神話」として、アメリカ人なら知らない人はいないくらい有名な話だ。
彼はその日、いつものようにウォール街の路上で、靴磨きに声をかけた。
「今日の相場はどうだい」。
「絶好調ですよ、Kさん。今日は特に鉄道株や石油株がいいようです」。
まもなく事務所に戻ったJSは、しばしの間一人で考えにふけっていた。
彼はまた、暴落直後にその原因をこう述べている。
「暴落のパニックはローンを使って取引していた人たちが原因だ。
もしあなたに一○万ドルの資産があるとしたら、ローンを使えば一○○万ドル分の株が取引できる。
そして株が一○%下がったら一○万ドルの損になり、そこであなたは破産する。
それが問題なのだ」。
だが圧倒的に多数の人々は、JSのようにうまくはいかなかった。
ウォール街には熱気が充満していて、今日買わないと明日もっと上がるかもしれない株が手に入らなくなる、一日遅れればその分損をしてしまう、と考える人で溢れていた。
一般投資家の多くは「Bl」と呼ばれる、株そのものを担保にして高金利で資金を借りる方法に頼っていた。
この証券担保貸付を利用すれば、最高で手持ち資金の一○倍の額の株の売り買いが楽にできた。
一○倍の資金を使って買った株が一○%上がれば利益も一○倍。
が、一○%下がれば、先ほどのK教授が指摘したように、すぐさま破産だ。
「靴磨きまでが仕事の手を緩めて、株の話に夢中になっている。
異常なことなのではないだろうか」彼は自分の考えをまとめると証券会社に電話をして、手持ちの株をすべて売り払って株取引から身を退いた。
「誰もが取引して、株の予想をするようになったら、もう私の出番はないよ」(自伝)というのが、この時の心境だった。
大暴落後、「私はこうして健在だ。私は財界の連中たちに勝ったんだ」と、語っている。
ウォール街の株式の騰貴は、「永遠の繁栄」が約束されているかに見えた。
大暴落の直前には、景気循環論の草分けである経済学者Wmが「もはやアメリカでは景気循環は消滅したのだ」との楽観論を述べているのがいい証拠だ。
一九二○年代の諸相をいきいきと描いた名著『オンリー・イエスタディ」で著者のFAは、当時の株式市場の様子をこう描写している。
そしてまもなく起こった「Bl」の貸し倒れが、多くの銀行の破産を招き、大恐慌の発端となっていく。
SPローン問題との相似形に驚かされるのは、私だけではないだろう。
一九二九年の九月までは株は上昇をつづけ、学者の間でも楽観的な考えが一般的だった。
事実、アメリカ近代経済理論の開拓者とされる、A・Fは「わが国の財政基盤は健全であり、株式市場は人類の偉大な進歩であって、われわれにすばらしい繁栄をもたらす手助けをしてくれています」と述べていた。
「八百屋、運転手、鉛管工、お針子、もぐり酒場の給仕までが相場をやった。
反逆しているはずの知識人さえも、市場にいた。
規格化と大量生産が、アメリカ人の日常生活に与えた重圧を声高に慨嘆しながら、気がつくと、彼らも、その実りを喜んで刈り取ろうとしているのだった。
(略)大強気相場は、全国民的熱狂になっていた」。
二○年代に流行したのがクレジット買い(月賦販売)である。
「今買って、後で払う(パイ・ナウペイ・レイター)」の面白さを味わってしまった」。
アメリカ社会は、信用で物を買い、大いに消費することを美徳と考えるようになった。
生産志向型から消費志向型の社会に変わり、消費を実現するために金を借りることは罪悪ではなくなっていたのだ。
一九二九年にアメリカには二七五○万世帯があったが、そのうちの二二%に当たる六○○万世帯は、年収一○○○ドル以下だった。
四四%に当たる一二○○万世帯が年収一五○○ドル以下、七三%に当たる二○○○万世帯が年収二五○○ドル以下だったとされる。
当時まずまずの暮らしには年二五○○ドルかかる、というのが常識であったという。
大多数は収入以上の暮らしを借金で賄っていたといわれている。
一九二○年代を通じて、新車の七○%、中古車の六五%が分割払いによって購入されて自動車を例にとって、一九二○年代の繁栄ぶりを見てみよう。
ちょうど一○○年前の一九○九年に販売が開始されたF社のT型車は、一三年にベルトコンベアーによる流れ作業方式を採用した。
生産過程を合理化したことによって労働者の賃金を引き上げ、製品価格を引き下げていく。
売り出し当初は一台一○○○ドル近かったT型Fは、二一四年には三○○ドル足らずまで価格が下がった。
Zm社は、Cdのような高級車からSBのような大衆車までを大量に生産していった。
二二年にはCR社が組織され、第三の競争相手として名乗りを上げ、Dz社やP社を併合していく。
今日、破産の危機に晒されているビッグ3は、このころ形成されたのだ。
SBがT型Fを脅かすや、F社は一九二七年に大胆なモデルチェンジを敢行し、A型Fを販売。
二一社の競争は熱を帯びて、一九三○年には大手三社が全米自動車生産の八割以上を占めるに至る。
一九○○年に年間四○○○台だったアメリカの自動車総生産量は、一二年に一五○万台、二九年に四八○万台という驚異的な伸びを記録していく。
二九年の時点で二六○○万台余りの乗用車・トラック・バスが国内を走り回り、自動車を抜きにしては考えられないアメリカ現代文明が開かれていくこととなるのだ。
自動車産業の拡大はその産業だけにとどまらず、鉄鋼、ガラス、ゴム、石油などの諸産業の拡大を促した。
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